高聲寺、客殿玄関の文化的増改築
                   浄土宗 藤田山道場院 高聲寺 藤本顕了師  茨城県 坂東市


追記            ● 竜蛙又は、もっと古い可能性




 

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 修復作業内容の項目までの報告書を御覧下さった御住職は11月28日(木)欄間納品時に次のように御話し下さいました。
 「元知6年(1620年)、知恩寺から、この寺へ、5〜6人の僧侶が来ました。徳川家康が知恩院を浄土宗の総本山と定める以前、浄土宗の総本山は知恩寺でした。竜の蛙又は、その時にもたらされた可能性があります。」
 この御言葉は私にとって衝撃的な御教示でした。
 この可能性は殆ど間違いないもののように思えます。
 いかに大火が繰り返されたとしても、関東地方にこのような作例が他に見られないということは考え難いことです。もし京都を中心とした関西圏から木彫師達が日光東照宮造営を期に江戸にやってきて、関東圏に活動の場を見い出して制作した物だとすれば、どこかにこの種の作例が残ってしかるべきだからです。
 どう考えてもこの竜は、江戸時代を遡り、もっと古い時代の物のように思われます。
 この竜の蛙又だけではありません。高聲寺には極めて多くの仏像があり、室町時代、あるいはそれをも遡るかも知れない、日本仏教美術、木彫の最盛期をなした鎌倉時代、もしくはその流れを伝える名品で溢れております。
 極、一部を拝見させて頂いたに過ぎないのですが、内部欄間の「天人」、その表情は気品に満ち、江戸期の作とは思えません。それは「とんでもない傑作」に感じられました。「お世辞でなく、大した物ですか?」と御住職がおっしゃいますので、「職人は御世辞を言いません」と申し上げましたが、本当にお世辞ではありません。
 格天井の板絵群が長谷川等伯その人の筆になるものかどうかは、等伯の研究そのものが現在あまり進んでいない為断言はできませんが、極めて優れた絵師の筆になるものであることだけは確実です。
 知恩寺の僧侶たちがいかなる理由で高聲寺に来たのかは知る由もありませんが、徳川幕府の方針により、かつての浄土宗総本山、知恩寺からかなりレベルの高い僧侶達により、大規模な寺宝がもたらされたように思えてなりません。
 私は既に琵琶湖周辺の寺院が欄間を含めて、鎌倉時代に、鎌倉の「明月院」に移されたことを知っています。そもそも木造建築は、解体されて、他の場所へ移築出来る構造を持ち、そのような例は多くあります。
 京都を中心とする関西から鎌倉時代に鎌倉へ流入した文化の担い手は、文化財を制作する職人以前に僧侶であり、職人が移動先で京都風の作品を造るより、僧侶が文化財を持って移動する方が、より早く文化を流入できます。
 中国から、日本の僧が経典を持ち帰るだけでなく、仏像、仏画、仏具を持ち帰る例も多く、荷車に蛙又をも乗せて移動することは、不自然なことではありません。
 率直に申して、私は身の引き締まる緊張を覚えました。この緊張は、竜の蛙又を初めて観た、仕事のスタートラインからゴールまで、いやゴールから一年近くを経た今も続いております。

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