高聲寺、客殿玄関の文化的増改築
                   浄土宗 藤田山道場院 高聲寺 藤本顕了師  茨城県 坂東市


高聲寺・竜蛙又の修復




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竜蛙又の概要     ケヤキ材
寸法 長さ1.076mm×高さ290mm×厚み115mm
向かって左、火炎のそり+35oを
含みます。下部の木片は含みません。
重量

6.7kg

宗教的・文化史的・造形的に貴重な文化財










































竜蛙又の長さは3尺5寸5分です。木材は木目と並行する部分(板巾)で、より縮小しますが、高さ方向(板の長さ)でも縮小しますから、製作時には、恐らく3尺6寸の長さであったことが推察されます。
 3+6=9で、9は最大の陽数(奇数)です。この寸法は、6尺間の蛙又の一般的な寸法です。
 当初、創建当初の2間間の御本堂、もしくは第2回目に建立された御本堂の、正面入口、付け虹梁上部の蛙又として製作されたものと思われました。
 竜は中国皇帝の化身とされていましたから、堂宮彫刻(仏像以外の社寺建築に付属する木彫刻)のモチーフとして、最も格の高いものです。
 本作の造形的質は極めて高く、また永年御本堂正面を飾ってきた人々の愛着から、第3回目の御本堂建立の際にも、 正面虹梁上部にも、引き続き取付けら
れたものと考えられました。
 木材は板巾(高さ)でかなり縮小しますし、虹梁とその上部の梁との間が、何らかの形で広くなったため、恐らく御本堂の瓦、吹き替え工事の際等に、下部に木片が取付けられ、高さを調整したものと考えられます。
 この木片は日焼けの状態から見ても新しく、2個の木片にそれぞれ2本の釘によって取付けられておりましたが、釘は新しく、明治時代以後の物です。
 今般の修復に際して、この木片を取り除くとの、御住職・藤本顕了の御決断は、製作当初の姿に戻す、という意味で、正しい御選択であったと存じ上げます。
平安時代の仏師・定朝は徒弟制度の元に仏師集団を組織し、大量の仏師が生まれました。鎌倉時代にも同様の仏師集団が活躍しましたが、やがて室町時代の戦乱の世となり、寺院の建立が縮小するのと時を同じくして、寺院建築に、仏像以外の堂宮彫刻が次第に盛んに造られるようになりました。
 大量の仏師達の仕事を確保するため、又若い徒弟の修行過程としても、堂宮彫刻は専ら仏師の仕事としてスタートしたはずです。比較的簡単な肘木のうず程度は手先の器用な大工職によって造られた例は見られますが、竜のような高度に造形性を求められる木彫は、当時は仏師の仕事と考えて間違いないと思います。

 日光東照宮の造営を境に、木彫師の移動が本格化し、やがて仏師と堂宮師の職業的分化が鮮明となっていきますが、この分化はゆっくり、時間をかけて行われました。仏像と異なり、堂宮彫刻は直接風雪に晒されます。蛙又は寺院外部に付きます。そのため堂宮師は、木材の特性を考え、風雪に耐える、壊れ難いものを造るよう努めました。
 本作では壊れ難いモノを造る配慮以上に、造形美に、より強い関心が注がれております。
 細い足、鋭い爪、折れやすい木口に細いとげを丁寧に彫りだした結果、今回の補修で行った欠落箇所の再現は28か所に及びました。
 本作が製作された時代、木彫師の身分は絵師より低く、絵師の下絵は忠実に木彫に再現されました。絵師は木材の強度・性質とは無関係に、造形美の追求のみに関心を持って下絵を描きましたが、これを壊れやすいからと言う理由で勝手に変更することは許されないことでした。
 本作の竜は狩野派、長谷川等伯派の描いた竜図の特徴を忠実に伝えており、又仕上げは極めて繊細、丁寧で、仏師の副業的な作であることが伺えます。
 江戸は度重なる大火、又関東大震災、先の大戦により、木造寺院の大半が焼け落ち、僅かに残る堂宮彫刻は、堂宮師の作になる物で仏師の副業的な作、この期の作例は皆無といって間違いないものと考えます。
 その意味でも、貴重な文化財であると思います。

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